『コクリコ坂から』〜宮崎吾郎は絵で語る言葉足らずの奇才〜

 宮崎吾郎は奇才だ。言葉を使わない。


 『コクリコ坂から』のヒロインは働き者。母親が不在である宿屋の家事をすべてまかなう。住民全員の朝食を用意し、学校へ向かう足取りは大股で誰も寄せ付けないほどスピーディ。彼女が夕食であるキャベツの千切りに明け暮れているうしろで、妹や下宿人は恋愛の話に華を咲かせる。極めつけは自室机の上にある家族写真で、不在の母の周りに集まる子供達(父は小さいころに戦死)。母という大きな存在の横でカメラを見据え直立するヒロイン。幼少時からヒロインが働き者で、手がかからず、周囲の手にかかっていなかったことがこれらの描写で伝わってくる。宮崎吾郎は言葉で伝えない。開始15分の「動き」だけでそれを表現する宮崎吾郎には絵の才能があるのでしょう。
 見てるこっちが可哀相なくらいヒロインが「手がかからない」んだけど、それがヒーローと出会うことで変わってゆく。輪に入っていなかったヒロインが段々「輪の中心」になってゆく。それをまったく台詞で伝えないから、その変化に気付く視聴者は少ないでしょう。ネタバレになるんだけど、CMの通り「まるでセンチなメロドラマさ!」ってことでそのヒーローと兄妹ってことがわかる。ヒロインもヒーローも傷つき、彼女はまた「輪の外」での働き者に戻る。戻ってからまた「大股歩きで誰も寄せ付けないスピーディーな足取り」になる。1番印象に残ったシーンが前述の冒頭・「キャベツの千切り」と、ヒロインが「輪の外」に舞い戻ってからの「のりはり」のシーン。誰もが認めるヒーローの輝きに周囲が沸き立ってる時、ヒロインだけ目もくれずノリで箱に名札を貼っている。能力を認められてるからこそ誰も手伝わない。孤独なシーンだ。
 とにかく「絵」で表現してくるから「筋」がわかりにくい。「学園紛争」「近親相姦」の2大要素があって、言葉で説明しないのと家族描写がおかしすぎるから「近親相姦」の方が意味わからなくなる。そこが一本の映画として大きな欠陥。本当に「家族関係」がおかしい笑。まず父が戦死して、母はまだ小さい3人の子供がいるのにアメリカに勉強しに行ってる。祖母が経営する宿屋に子供たちは居るんだけど、その祖母がヒロインに宿の家事も経理も丸投げ。祖母も妹弟も同居人も誰もヒロインを手伝わない。遅くに帰ってきて、夕食の支度を急いでしているヒロインが祖母の部屋でTVを見てる妹と弟に買い物を頼むシーンがあるんだけど子供たちは全員「このあと●●が出るから!」と言うことを聞かない。普通そこで分別ある保護者なら下の子を叱って行かせる。それなのに祖母、無視。結局ヒロインが買い物にも行く。マジ虐待レベルなんだけど、それでもそんな状況を放置している祖母や同居人は「分別ある暖かい良い大人」として描かれる。妹も弟も「無邪気な子供」というジブリイズム。宮崎吾郎の家庭が異常で、「異常が普通」と思ってるから「暖かい普通の家族」がわかってないんじゃないか。

 『コクリコ』の評価が高いのは『ゲド戦記』との比較が絶対あるんだけど、2作品に共通するのは「言葉足らず」宮崎吾郎は絵で表現する監督だから。『ゲド』は原作がシリーズもので世界の均衡・邪悪と善という複雑な設定があるから「言葉足らず」では後味が意味不明。『コクリコ』は昔の少女漫画だけあって話が「学園抗争」と「メロドラマ」だから説明されなくても視聴者がわかる。「絵」の効力が巧く働いて後味がわりと壮快。だから評価が良い。でも筋自体は両方欠陥ありまくりの「言葉足らず」なわけで*1。今回の好評価で宮崎吾郎の次回作に期待!」って空気は絶対あるだろうけど、次が『ゲド』みたいな複雑な世界観を持つ原作映画だったら悪評ばかりになるでしょう*2。あの監督(絵で表現して一般常識が無い)じゃ「言葉足らず」は治らんと思うよ。それが欠点であり偉大なる才能。「絵」での表現が大部分を占めるアニメ監督になるべくして生まれてきた異才だ。

★★★☆☆

*1:(※ネタバレ)『コクリコ』の最後は辻褄が合わない合戦。母に真実を告げられたヒロインがヒーローにそれを告げない。一方だけが真実を知ったまま、「真実を知りに」父親たちの旧友の乗る船へ向かう。船上のラストを入れるなら母の告白は要らないでしょう。で、ヒロインの父親も意味不明で、大切な親友の子供を託す相手に真実を伝えないのはおかしい。ヒーローの育て親、「段々あいつに似てきたな…」とか実際は違うわけだから赤っ恥じゃん笑。あれなら『ベンジャミンバトン』みたいに家の前に子供を捨ててきた方が良かった。これじゃぁヒロインの父親は嘘つきということになる。

*2:ぶっちゃけオリジナル作品が見たい。ヌーヴェルヴァーグみたいに意味わからんと思うけど絵の才能は存分に味わえるはず笑