『ブラックスワン』は非才の話

 『ブラックスワン』を見た。これ、才能の無い人の話でしょう。
 (※ネタバレ)アロノフスキーと相性が悪いのか。自分だったら絶対あの落とし方はしない。万一筋をああするにしても、ラストシーンをもっとホラー演出にする(そうしたら「表現者」の話ではなく「狂気に取り憑かれた者」の話になる)。ヒロインは結局真面目なんだよなあ。コーチが「君に技術的な面での心配はしていない。大役では自分を解き放て。それが出来る者はごく少数に限られる」と語っていたけど、ヒロインにあの台詞と死を与えることによって結局彼女は「才能のあるごく少数」ではなかった事になる。「陽が当たらなかった者が死で達成感と恍惚を得る」話なんだよね。自己欲求を満たしての死なら「他人からはバッドエンドだが本人にとってはハッピーエンド」になって納得がゆくんだけど彼女が言う「パーフェクト!」って「求められた」、「与えられた課題」。最後ヒロインは正気に戻ってるでしょう。元のいい娘ちゃんな娘に。鼻水をたらして恐怖に脅えるポートマンの表情がそう言っている。
 結局は「大スター」の才能が無かった、でも母と師に求められたことをやりたかった「真面目な子」の末路って感じで鬱になった。大スターでいるには表現面だけでなく日常でのメンタル面の才能も必要とされる(その点ウィノナライダーの役は一定期間スターだったのでしょう)。ヒロインの『白鳥の湖』公演での表現は才能に溢れたものだったけどその代償は死。「大スター」になることはほんの1舞台でしか許されない。それが彼女の限界。でも真面目な彼女は求められた課題をこなせたことにとても喜ぶ。「結局は最後まで芯は変わらず真面目ちゃん」で笑顔で死なせるより、正気に戻らず、ホラーらしく化け物に乗っ取られたまま死んだ方が後味いいよ。大スターというのは「大スターである」から大スターなのであって、一瞬しか輝けなかったヒロインはまるで王子の愛を受けられず滅んでいった白鳥のようだ。白鳥は己の運命に悲しみを抱いてこの世を去るけど、主人公は喜びの中死んでいった。
 その「真面目ちゃんの喜び」に実質性が伴っていないことは、コーチの「君は僕のリトルプリンセスだ!」という台詞で答えが出ている*1

★★★★☆ 映画としては、A級設備でつくったB級サイコスリラーという感じで話題作だけある珍しさ。絶賛はしないけど劇場で観る価値はある。確かにポートマンを筆頭にハーシーetcの演技が凄いが、演出がドギつく演技を堪能する造りではない。

*1:遊び人の子に「あなたもマイリトルプリンセスと言われるようになるわよ」と言われてヒロインは「そんな人じゃない」と否定していたが、結局は忠告の通りになった。自分にはこの映画は、ずっと期待に応えようとしてきた子供が「自己を解放させろ」という大きすぎる期待に潰され壊れていった話にしか見えない。ヒロインからしたら私は「自己の解放」に成功した!と喜んで死んでるんだけど、その自己というのは本当に自己なんだろうか?その私、というのも、私?