絶望を遺してくれる綺麗ごと。見ると叫びたくなる映画『ヒミズ』(65点)

「震災で大きな被害を受けたが、日本人は前を向いて立ち上がる!」
「立ち上がれない人だっていますよ。」

 きれいごとと絶望。きれいごとも絶望も、忘れてはいけないと思った。
 
(※完全ネタバレ☆)
【1.幸せじゃないハッピーエンド】

〜後半の構成〜
巻き込まれ型の絶望(長尺)→絶望からの救済(短尺)

 後半が「この世界は絶望ですよー」の山びこ。 と に か く 長 い 。「この世界は絶望である」と叫んでくるシーンが6つ*1。絶望×6で一時間くらい?それからの救済が10分程度で、作品はすぐ幕を閉じる。ハッピーエンドなのに消化不良なんですよ。この「消化不良な後味」の由来は【絶望の長尺・救済の短尺って時間配分】にある。「おいおい、あんな辛かったのに希望はこんなちっぽけなものか、あまりにも…あまりにも酷いじゃないか、これじゃ。」、と、ハッピーエンドなのに落ち込む笑。だから、「叫びたくなる」。主人公たちのようにせめて叫んで、自分もスッキリしたくなる。ハッピーエンドでも、あまりに道程の絶望がつらすぎるから。忘れられない絶望。

【2.きれいごとと絶望】

1.本人は悪くない巻き込まれ型の絶望→2.悪くなかったのに、絶望を受けた者が同じ加害者(クズ)になってしまう悲劇→3.やり直そう、生きよう、がんばろう、という救済

 作品の大筋はこんな感じだと思う。そこに東北震災が付与された。震災と作品テーマをリンクさせるとしたら「1.本人は悪くない巻き込まれ型の絶望」ではないか。被害者は何もしてないっていうのに、あまりに大きすぎる悲劇。大震災はその典型でしょう。
 綺麗ごとを述べる教師「震災から前を向いて立ち上がろう!普通なんてダメだ!1つの花になろう!」vs絶望の存在を提示する主人公「震災から立ち上がれない人もいる。普通最高!」 印象的なやりとりですが。実は、結果的には主人公は教師の言論側の立場になる。"きれいごと"の体現者になる。主人公は彼自身が言う「立ち直れなかった人」だった。絶望から立ち直れなくて、自分もクズに成り下がってしまう。しかし最後は「がんばろう」と、やり直そうと、走る。変わろうとする。普通ではなくなったし、絶望から立ち上がって前を向いた。

 結果だけ見れば、この映画は綺麗ごとです。陳腐な教師が言っていた「絶望から立ち上がって前を向く、たった一つの花」になった若者の話です。しかし、決して綺麗ごと"だけ"じゃない。何度も言うように、それまでの絶望が大きすぎた。この不完全燃焼な映画を見たら忘れられるわけないでしょう、あの執拗な、絶望。でも、それでも前を向く。前を向くには綺麗ごとが必要だ。絶望を忘れたら綺麗ごとは陳腐になる。綺麗ごとも、絶望の存在も、両方忘れてはいけないのだと思った。絶望を忘れずに前を向くには、叫びながら走るしかない。


【番外.光る☆染谷将太窪塚洋介
 主人公の染谷将太と脇役の窪塚洋介がすこぶる良いです。輝いている。特に染谷将太が遺体を隠すため涙ながらに土を掘るシーンが良い。彼が殺した父親は、会うたび「死ねばいいのに」と言ってきたくせに「死ねばいいのにってずっと思ってた。今日初めて言えた。」と吐く。矛盾。その父を殺した彼はその手で何度も頭を滅多打ちにしたくせに「おい…なんで死んでるんだよ!」と物言わぬ屍に問いただす。矛盾。矛盾のリンク。こういう時だけ"親子の縁"を感じるのは哀しい。

(これだけ書いといて「65点」なのは、絶望感が強く残る映画が好きじゃないからです。延々と絶望を描いたとしても、映画は幸福の後味を提供して欲しい。あとやっぱり長く感じる笑。)

*1:夜のチンピラ・通り魔殺人・ライブ事件・メス豚・ファミレス・バス事件の6個。2,3個でいいと感じたが…。