ドラマ『下流の宴』3話までの感想

 『下流の宴』、「下流」に位置づけられている人たちの方が自分の人生に満足しており、人生を謳歌していた。レッテルにとらわれヒステリー状態の「中流」・黒木瞳より(比較するなら)精神的に勝利していたと言っていいでしょう。しかし下流のヒロインが黒木瞳接触してしまったが為に悔しさを覚え、宣戦布告をする。異なる「階級」と接触したことがキッカケとなって戦いの火蓋が落とされ、下流のヒロインは新たな「人生の満足」を掴む為変化を遂げようとする。この「黒木瞳接触したことで今までの満足が満足で無くなる」ってつなぎが面白いなーと思った。「人生の不満足」の伝染。「人生の不満足」と言っても、(3話時点では)ただ自分の考えを他人に押し付けることで精一杯になっており最終的にはヒステリーで終わってしまう黒木瞳より、相手の言い分を一度受け入れ提案を突きつける下流ヒロインの方が生産的な「人生の不満足」の抱え方をしている。

 「中流」「下流」というくくりを黒木瞳は主張しているけど、どちらかというと「家系の差」より「考えの差」だと感じた。「裕福な家を持って、社会的信用度を誇る」ことで満足する黒木瞳とその母、「社会的信用がどうであれ、自分が良ければそれでいい」ことで満足する息子とヒロイン。後者はあまり金の力を信じていない。それはバブルを経験せず、むしろその崩壊を教科書で習い、実際アメリカ金融バブル崩壊を体験したことが大きいと思う。常に「日本は不景気不景気〜」な報道のされ方をされてきた世代。
 原作の林真理子が凄いのは、「自分が良ければそれでいい」という新しめな価値観のデメリットも描いているところ。自分が満足なら低所得でも良い、精神的満足は大事だけど、でもそれで暮らしていけなかったらどうするんだ、と。実際に彼らは家系や社会や法律に不注意すぎて犯罪を起こし巻き込まれる。「裕福な家を持って、社会的信用度を誇る」ことで満足する考えのデメリットはもう描かれてて、理想を押し付ける母の加護とともに学校をドロップアウトした彼女の息子がそれを体現している。そしてなによりも、夫にすら聞かれない彼女のヒステリックな声がそれでしょう。同窓会で虚勢を張る導入は見事。反対にメリット黒木瞳の母の野際陽子。「自分が良ければそれでいい」の方のメリットはヒロインの良心が営む飲み屋。野際陽子を目指し家庭づくりを失敗した黒木瞳を見ればわかるように、結局は人それぞれ
 子と親の関係性も面白くて、黒木瞳下流のヒロイン両者とも己の母の生き様を尊敬している。けれど母と子と言えど「違う人間」なわけだから、真似だけではいけない。「人それぞれ」にプラスして「時代(環境)」も違うわけだから。

 最後に。面白いのは、日本で自分の家庭を「中流」と見なしている人はなんと9割にものぼること。家計の「下流中流上流」は数値が決定するものではなく相対で決まるものなので、「下流中流上流」は実際の統計学上では3割ずつ存在するもの。つまり自分を「中流」と思う日本人の中には下流に位置する人も上流に位置する人もいる。アダムスミスは「自分を中流以上だと民に思わせる国が真の豊かな国家」的なことを言っているので、彼のその言い分では日本はいい国なんでしょう。経済水準と精神水準がともに高い。本当は上流に位置するのに中流と思ってしまう人間が多いっていうのがなんか日本的だけど笑。しかもそのわりには国全体のオーラが「僕たち豊か〜♪」ってわけでもないからね。「若き成り上がりとして扱われているホリエモンが37歳なところに日本の病理を感じる」って小池りっくんが言ってたけど、良くも悪くもそれにつきる。