円城塔『Boy's Surace』

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

 収録作『boy's surface』について、独自の解釈を述べる。場合によってはネタバレ、場合によっては妄言。

・『boy's surface
 主人公は数式。「Aが好き」という感情の対象である"A"は、"認識者の認識によって構成されたA"であり、"現実に存在するAそのもの"であるという証明は無い。現代の価値観においては「Aが好き」におけるAが真実ではないにしても、"真実に近づこうとする感情"が美しいとされるのが多ケース。さて、"Aが好きという感情の中のイメージ集合体であるA""Aという実体そのもの"。これらがイコール関係を結ぶことは有り得るのだろうか?このことを証明しようとした数式が、本作の主人公
 以上が解釈。本作品はこう始まる。

"これは多分「僕たちの初恋の物語」。それとも矢張り「初恋の不可能性を巡る物語」。"



・『Goldberg Invariant
 人間は方程式を操れない。その方程式は過程を求めることはできない。方程式は別の方程式の出現により転覆し、その横転は"各方程式の戦力"に起因するので、戦いに勝つためには援軍を要請すれば良い。こうして世の中の定理は代替を繰り返す。
 さて、そのような世界で我々は何を信じられるのか?「貴方は人間ではなく犬なのではないか」という問いに対して我々がとれる選択肢は「私は私が犬である可能性を永遠的に保留し続ける」という回答のみである。しかし、このような態度をいつまでとり続けられるだろう…?この最後の問いに対する答えが、「独りではもたないだろう」ってもので、逆説をとれば、この物語の語り部「独りでは一人の人間として存在し続けられない」と宣言している。人と人の繋がりの有効性を認める物語。優しい話だと思った。


・『Your Heads Only
 恋愛に有用性があるか無いか争う話。「恋愛は有意性がある」と主張する側が人間ではなくシステム(機械)で、「有用性は無い」側に立つのが人間、というポジショニングに円城塔の作家性を感じる。

 いいと思った文。

本の方が、それを読む者よりも大きくては堪らない。別に本は個々の経験などを持っているわけでもないのだし、百歩譲って固有の意見を持っているとしてみても、それは内奥に秘されて隠されており、表面に浮かぶ模様はそれを反映したものではない。所詮大量生産しうるものにすぎないのであり、その本固有の特質はその本の内容固有の特徴などではありえない。

 「どんな大層な小説や映画でも、教室での1分1秒には敵わない」って高校生くらいの時から思ってて。物語というのはそもそも人間の手によって作られたもので、ある種人間の一部であり、それを切り離して社会に放出させたものが小説だったり映画だったり漫画だったり。「人間の一部」に過ぎないものが、「人間」より大きいのは道理に反している。だから、どんなに社会的に認められている物語よりも全ての人間の方が存在が大きいと思う。